
| 浙江省の民俗風習を訪ね歩く |
| 浙江省は銭塘江を境いに、浙東(浙江省東部)浙西(浙江省西部)に分けられ、あわせて「両浙」といわれている。自然環境にそれぞれ違いがあるため、景観にも違いがある。浙江省東部は山が多く、浙江省西部は河川が多い。しかし、風光明媚という点では一致している。浙江省の景観の特色は山あり、川ありで、スケールが大きく、奥深さがあり、まさに南宋の山水画の世界であり、あっさりして、塵あいの存在を感じない。そして、このような美しい景観のもとで、東部、西部を含めて浙江省でなが年にわたって育くまれてきた民俗、風習も、おのずから他の地方と異なる特色をもち、あっさりして優雅で、超然とした雰囲気があり、濃厚な文化の息吹きを感じるものがある。しかも、ながい歴史をもち、人々を引きつけて離さないものがある。 |
| 天下の奇景・銭塘江の潮 |
| 銭塘江の潮は、「海寧の潮」あるいは「浙江の潮」ともいわれ、毎年の中秋の頃に潮が満ちて来るときには、満ち潮を見に来る人が、昼も夜もあとを絶たない。これはむかしから天下の奇観といわれてきた。銭塘江には潮を見る地点が3箇所ある。@一般に「海寧宝塔の一線の潮」といわれ、そのほかにAとBの潮を見るスポットがある。八堡海塘と「老塩倉」海塘である。「八月十八の潮、その壮観天下に無し」といわれる。南宋の頃から、塩を見ることが盛んになった。南宋の頃には毎年八月十八日(つまり、「潮の神の生誕の日」といわれる日である)に銭塘江で海軍の観艦式がおこなわれたので、それ以後、この日は観潮節となった。人々はこの日の前後に、先を競って海寧へ観潮に出かけた。海寧の潮が見ものとなり、壮観なのは、自然のなせるところでもある。旧暦の7月、8月の間の「秋分」の前後には、旧暦1日と旧暦15日の潮の落差が大きく、しかも、この時期はモンスーンの吹く季節でもあり、銭塘江の流量も比較的多く、河水が海に流れ込み、モンスーンに吹かれて押し寄せる潮とぶつかり、それで天下唯一の奇観といわれる秋の潮が形成されるのである。 |
| 世に知られた蘭亭の曲水 |
| 紹興市の南西25キロのところにある蘭亭は、晋の書家王羲之が「蘭亭集序」を書きあげたところだといわれている。「蘭亭集序」は文学としてもきわめて高い価値があるとともに、書の芸術としてはなおさら「天下第一の行書」と称されているほどのものである。蘭亭は紹興の由緒ある庭園で、流觴亭を中心として、前には鵞池、曲水があり、後ろには御碑亭がある。そして、蘭亭の左告には小蘭亭と右軍祠がある。ここにある石碑に「鵞池」という大きな字が彫られている。2つの字の字体が異なっており、これには次のような言い伝えがある。王羲之が筆を握って「鵞」という字を書き終わったとき、皇帝からの命令を届けられたという知らせがあったので、ただちにひざまずいてそれを受け取ろうとした。その息子の王献之が続けて筆をとって「池」の字を書いた。親るの字は、片方はふとい字、他方はほそい字で、コントラストをなしている。「鵞池」の上にかかる三曲平橋を渡ってほどなく、かなりの樹齢のある木材でつくられた「流觴亭」のところに着く。蛇行したせせらぎが鵞池からここを経て「小蘭亭」へ流れていく。紹興市では毎年旧暦三月三日には「蘭亭書法まつり」が催される。 |
| にぎやかな村芝居 |
| 「社戯」つまり村芝居は紹興地区の民間のお祝い行事と娯楽の一種である。「社」とは土地の神様のことで、のちには地方の行政区域の名称ともなった。「社戯」は、地方で毎年、土地の神様に奉納する芝居のことである。だが、紹興ではかならずしも土地の神様に奉納するものとはかぎらない。要するに、お正月や祝祭日あるいは農閑期に地元の廟の本堂の舞台やにわか仕立ての舞台で、呼んできた劇団一座に一日中芝居を演じてもらうのである。紹興の村芝居が有名なのは文豪魯迅がその作品の中で生き生きと描写したことがあるからだ。そしてさらには、紹興は水郷であるため河川が交叉し、湖沼があちこちに散在しており、村芝居のかかる舞台は往々にして水際につくられ、紹興の人たちは、舞台の前の地べたに立ったり、座ったりして芝居を見るばかりでなく、ヒマなときは舟に乗ったままで観劇する人も多い。村芝居のかかる日には、村人たちは早くから友達にそれを知らせ、他の郷や村で暮す親類も呼んで一緒にたのしむ。舞台の前方の川は見わたすかぎり黒一色に染まることもあるが、それは芝居を見に来ている人たちの舟のとまの色である。農民たちが好んで見るのは紹興芝居で、これには紹劇という優雅な名称がついている。出し物の多くは、立ち回りや気持ちがすっきりするような「包公もの」(日本の大岡裁きのようなもの)である。 |
| 民俗風習をめぐる観光 |
| 浙江省にあまたある民俗、風習のなかで、旧暦1月15日上元の夜の灯籠(ちょうちん)節がいちばん代表的なものである。それは民間に広がることにより、次第に、にぎやかな行事になり、そのやり方もそれぞれの地域の特色をもつようになり、ますます多くの人びとを引きつけるものとなっている。 |
| 紙で竜の形に作った提灯 |
| 朱家村には竜灯祭があり、紙竜灯(紙で竜の形につくったちょうちん)の祭りともいわれている。「元宵節」の夕方になると、それぞれの家の前には紙製の竜のちょうちんがひとつ置かれる。夕方6時頃になると、地元の祠(ほこら)のあたりではドラや太鼓の音が響き、爆竹が鳴らされる。どこの農家からも丈夫で力持ちの男子一人が竜のちょうちんを手にほこらのところにやってくる。牌のほうに向け、竜の胴体は時計の針の方向で、ほこらのなかを練り歩くようにする。竜のちょうちんの列は98節からなり、長さは約150メートル強で、竜の開眼供養が終わると、列の先頭で爆竹、ドラ、太鼓を打ち鳴らしながらほこらを出て、山上へと練り歩いていく。 |
| 浦江の長灯まつり |
| 浦江の「元宵節」の風俗は、1月11日には、ちょうちんを蔵から出すだけで、14日、15日になってはじめてピークを迎える。現在、浦江ではすでに200余の「元宵節」ちょうちんまつりが復活している。なにしろ15種類のちょうちんを順番に使っての演出なのである。3年ごとにやり方を変え、そのなかでも長灯まつりが最大のイベントである。その他の地区では、長灯は「橋灯」あるいは「長イス型の竜」ともいわれている。浦江においてさえ、長灯まつりにそれぞれの違いがあり、そのなかでも山間部の寺前村のもののスケールが最大で、踊りもいちばんダイナミックで、もっとも郷土色に富んでいる。長灯は、竜の頭、竜の胴体、竜のしっぽの三つの部分からなる。竜の頭の下には板を入れてそれを支えるようにし、頭は竹のヒゴで編み上げる。高さはふつう2メートル、長さは4メートルで、外側から柔らかくて薄い紙をはり、紙には色あざやかな竜のウロコを画いている。浦江の竜の舞はふつう1月15日までなので、「元宵節」の夜は、とくに勢いがこめられ、あばれまわる踊り方をする。このとき、ロウソクをともしその光の効果で、長い火の竜が現われ、暗夜の中でますますその明るさを目立たせ、前へつんのめったかと思うと、また後ろへ飛びはね、目がまわりそうな速さで回転し、竜の頭が地べたにつけられたとき、竜踊りは「元宵節」とともに、歓声の中でその幕を閉じる。 |
| 仰義の竜踊り |
| 温州市の仰義の人たちの間では「竜の踊りを通るは千年の吉」といわれている。档竜踊りというものがこの地では新しい年の五穀豊饒と家畜がすくすく育つことを祈る最適の方式となっている。竜踊りの前には、慣例として神を祭る儀式が行われ、のりとを上げる。竜を迎えるために、どこの家も入り口のところでワラを燃やす。これは一般には「潭紅」といわれ魔除し、厄払いのためにおこなわれるものである。「档竜」は「灯板竜」ともいわれている。「竜の胴体」は板で節目をつくり、両端に開閉栓をつけてつないでいる。板の真中あたりにはいずれもちょうちんを置くようになっている。特別なところは、竜頭、竜尾が紙と竹ヒゴでつくった漁船のような構造になっていることである。竜頭は長さ約5メートル、高さ2メートル。これはこの一帯の人たちが長年、甌江の上流地帯で暮らし、漁業を生業とし、漁船を家としていたからだ。だから、竜までが舟の形をしているのである。「档竜」踊りは、誰でも出来ると言うものではない。なにしろ、竜の頭は非常に重く、大男が7人ないし8人で交替でかついで走り、上へ、下へと跳ねたり、踊ったりし、あらあらしく、ダイナミックに動き回るのだから。竜の長い胴体はあわせて18節からなり、しかもちょうちん18個と小さな赤旗が18本もついている。胴体は20数人の男の衆がかついで、竜の頭のあとにぴたりとついて動くのである。踊っているときは、竜の頭と竜尾は胴体とつながっていない。竜が頭をもたげて前へ走るとき、胴体はぴたりとくっついて動くが、竜尾はときには胴体から遠く離れたところで揺れ動き、姿を現したり、姿を消したりしている。まるで波間にただよう小舟のようで、格別な味わいがある。速いテンポで踊り出すとき、ちょうちんの明りとたちこめる煙の中で、竜頭が見えてきたり、胴体が見えてきたり、竜尾が見えてきたりして、眼がぼおっとなる。 |
| 新安江の漁民の結婚式 |
| 新安江一帯に住む九つの姓の漁民の結婚式風習には独特なものがある。九つの姓とは、陳、銭、林、袁、孫、葉、許、麦、何のことである。昔からの言い伝えによると、この九姓の人たちは元の末期、明の初期に元に反抗して戦った群雄のうちの一人、陳友諒の指揮下の武将たちの姓である。その後、明の朱元璋が陳友諒を破って天下を取ったため、この九姓の人たちは賤民扱いにされ、舟の上で暮らすことのみ許され、陸に上がることは認められなかった。ときたま、陸に上がって買い物するときは、はだしでいかなければならなかった。もしもこのおきてを犯せば、二本の足を切られてさらしものにされるのだった。陸地に住む人と結婚することも許されず、代々水上にさまようしかなかった。さのため、だんだんと独特な結婚風習ができあがった。女性がお嫁入りする前の晩、お婿さんになる男性の家の舟とお嫁さんになる人の舟がゆっくりと近づき、1メートルぐらいまで近づくとイカリをおろす。舟はきれいに飾り付けられ、舟のとまいには赤い絹の布がかけられ、「?」の字の入ったちょうちんがかかげられ、色とりどりの紙の飾りが風に揺られている。両方の舟の先には銅製の大きなドラがかけられている。ドラはもちろん打ち鳴らすためにそこにかけられているのである。両方の家のものがタイミングを合わせて同時に打ち鳴らすのである。13回ずつ打ち鳴らし、夜が明けるまで続ける。ドラの音の中で、お嫁さんは家族の者たちと独身時代「最後の夜」を過ごすのである。お嫁さんを迎えるときは、クライマックスだ。両家の舟は少し離れており、お嫁さんがおむこさんのところへ行くには、たらいに乗せて小舟代わりにしていかせることもあるが、いっそのことお嫁さんをそーれとおむこそんの家の舟へ放り込むことのほうが多いようである。お嫁さんを放り込む儀式は、「放る」と同時に爆竹を3つ鳴らす。最初の1発は「あいさつと合図」の意味をこめたもの、つまり男のほうの舟に「お嫁さんを迎える」用意をしておいて下さいという意味だ。2発目は「スタート」の意味で、爆竹が鳴ったかと思うと、お嫁さんは肩と腰を支えられて「せーの」と男の舟のほうに放りこまれる。お嫁さんはキャーといいながら無事「着地」する。そのときに3発目が鳴る。セレモニーの終了を意味するのだ。お嫁さんを放り込むのはスリル満天のことでちょっと気をゆるめると、放るものも、お嫁さんも河に落ちてしまう危険さえある。いまでは安全のため万が一に備えて放るものは事前に腰に安全ベルトを結んでいる。 |
| 含山のかこい祭り |
| 湖州一帯では、唐、宋以降、かいこの女神−「蚕花娘娘」をまつる風習がある。湖州一帯の人たちは、毎年清明節の12日前から忙しくなる。ニワトリ、ブタをつぶし、ちまきをつくって、先祖とかいこの女神にお供えするのだ。清明節の前の夕食のおかずは、ごちそうであるばかりか、青一色のものとなる。長江以南の地域は、河川が網の目のように交差し、含山付近もそうである。遠くに住んでいる養蚕農家の人たちは、近所の人たちと舟で含山詣りに来る。かいこの女神をおがみ、マユの豊作を祈ったものである。ところが、近年は含山のお寺が見る影もなく荒れはて、かいこの女神像もどこかへ行ってしまったので、こういう儀式もすたれてしまい、かわりに、飾り付けられた舟をたくさんつらねて、そのうえで、いろいろな出し物を演じてみせるものに様変わりした。出し物には、拳術、武芸、歌,楽器演奏などがあり、また、スリリングな曲芸などもあり、蚕花娘娘のお祭りも民間の娯楽集会となった。また、ふだん会う機会のない周辺の村人たちにも、出会いの機会ができる訳だ。 |
| 富春江のほとりのイベント |
| 杭州の富春江民俗観光は非常に好評で、主に富陽県の新沙村と和尚荘一帯の民俗を見て廻る旅である。新沙村のコースでは、船で水の清き富春江をさかのぼって新沙島に向かう。そこに到着すると、村人たちが昔から伝わるやり方でお客様たちを歓迎し、ドラと太鼓を打ち鳴らしての大歓迎である。村では、闘鶏、闘羊を見たり、養蚕、製紙を見学し、水車を足で動かしてみたり、臼(うす)をひいてみたりして、農作業を体験する。もし興味があればみずから手を動かしてやってみるのも楽しみの一つである。また、昔から伝わる牛車に乗って、ミズスギの並木のある農道を通って川岸まで行き、そこで船に乗ってもよい。ところが、和尚荘では、林の中に別荘風の建物を作り、外国から観光客に地元の農民たちと食、住を共にして楽しんでもらうことにしている。こうして、中国の農村の習慣を実地に体験してもらい、農村の雰囲気を味わってもらうのである。(解説 康捷) |
| 羅漢さまをたたく |
| 永康の方岩の縁日は、北宋の役人胡則ともかかわりがあるせいか、よく知られている。胡則は永康の生まれで、役人であった頃、民に寛大で、賦役を軽したので、人気があり、人びとは尊敬の気持ちをこめて「胡公」と称している。没後、胡則がかつて学業に励んだ場所方岩に廟を建ててまつった。それがだんだんと縁日に発展した。すでに800年近い歴史がある。毎年旧暦8月13日、つまり胡則の生れた日から9月9日の重陽節(日本では菊の節句)までの一か月近くの間に、毎日何万人の人たちが山で焼香する。胡公廟は方岩山の山頂に建てられている。廟の前には仮面をつけた娘さんたちが、手に色とりどりの布とせんすを持って、歌ったり、踊ったりしている。みんなの農家の女性たちである。村ごとに、そして郷ごとに、いろいろ違った伝統行事があるが、「羅漢さまをたたく」行事だけは永康全域のものである。地元の風習では重陽節にはどうしてもこう行事をやらなければならない。なかでも中山郷の行事がぴか一らしい。重陽節の早朝から、中山郷の脱穀場からドラや太鼓の音が聞こえてくる。12の旗印の先導のもとで、いろいろな武器を持った男子が、大声をはりあげながら、旗をおしたてて脱穀場に歩み入り、相対する隊形で、格闘技やちやんちやんばらを繰り広げる。南部ではかっている拳術、北部ではかっている足蹴(あしげ)の技、剣と剣、槍と槍のちゃんちゃんばらばら、矛と盾(たて)の勝負、広場は真剣勝負の古戦場の様相を呈し、壮観そのものである。永康に「羅漢様をたたく」催し物がはやったのは訳がある。言い伝えによると、宋の時代以前、地元ではそういう催し物はなかった。胡則が兵部待郎という国防大臣のポストにつくと、外から攻め込んで来る敵を迎え撃つため、農閑期に武術の稽古をさせるようになった。 |
| シェー族のユニークな風習 |
| 麗水、温州、金華の三市と建徳、桐廬などの地は少数民族のシェー族がたくさん住んでいる地域である。シェー族は特異な風習をもつ少数民族である。毎年旧暦の1月8日は、シェー族の人たちのトーテム祭りの日で、祠(ほこら)にはちょうちんがかけられ、色とりどりの飾りがつけられ、真中両側の壁には『三皇五帝』という伝説上の神々、『盤瓠出世』、『盤瓠平番』、『盤瓠墓基』という道教の神の天地開闢の物語を描いた図がかかっている。シェー族の婚礼は、媒酌人の世話、婚約、結納、赤塗りのかごでの花嫁の出迎え、しゅうと、しゅうとめへのあいさつ、新婦の里帰りなどがある。なかでも、もっとも特色のあるのは「借?」と「夜のとばりのもとでの歌垣」である。「借?」という特異な風習は、シェー族のルーツといわれる三人の男が妹の夫を品定めしたことから始まったらしい。新郎は嫁の実家の40余種類の家具、品用器具を「なぞなぞ」の形で読みあげるのである。夕食のあと、歌い手の男と女たちは、居間で車座になって歌垣をはじめる。夜半過ぎ頃からは『田植歌』をうたうほかに、目に入るものは全部アドリブでうたう。たとえば、はしが目に入ると『はしの歌』を、お酒が目に入ると『酒の歌』と、夜明けまで歌いつづける。シェー族の婚礼のいまひとつの風習は、顔に灰を塗る遊びである。新郎は新婦の家に来た夜、歌い手の女は民謡をうたっていろいろ難問をぶつけ、新郎側のつきそいの男に答えさせる。うまくいけば一献差し上げ、答え間違ったり、答えに窮したりすれば、つきそいの男に顔にナベの底についた灰を塗りつけるのである。 |
| 千年の歴史をもつ金華の闘牛 |
| 金華の闘牛は民間で盛んな習習で、北宋の明道の頃(西暦1032〜1033年)からはじまったといわれるから、千年の歴史がある。清朝末期と民国初期にとくに盛んであったといわれている。いまでは金華観光のレパートリーとなっている。闘牛に使われる牛のほとんどは、黄牛(あか牛)で、ごくまれに水牛が使われる。闘牛がおこなわれる日は、まず「迎牛」という入場の儀式がおこなわれる。牛は頭に金の花をつけて、胴体に赤い絹の布を巻き、カラフルな服を着て、頭に手ぬぐいを巻き、腰にふとい帯を巻いた四人の男が牛を追うようにして闘牛場に入ってくる。闘牛場は四方が高くなった広い平地を選ぶ。周囲の高い所は天然の観覧席となるからだ。牛が集ると、闘牛の順序をクジで決める。闘牛に参加する2頭の牛はそれぞれのつきそい人にひかれて闘牛場の真中に来て、面と向かい合う。しばらくすると、2頭の牛は興奮してお互いに角を突き合わせる。三回または四回角を突き合うと、つきそいの人たちが力づくで引き離し、また面と向かい合う。これを何回か繰り返しているうちに、ますます激しさを増してぶつかり合うようになり、観衆は四方から声をあげて牛を力づける。強い方の牛は果敢に攻撃を仕掛けるが、負けた方は血だらけになって逃れ去る。 |