横店映画村   
  
   



広州街・香港街スポットは、1996年8月に歴史を題材としたアヘン戦争を撮影するために、本物に近い実物建物が建設され、まるで芸術的にそのころの広州の町並み及び香江のあでやかな姿を再現しているようである。広州街の敷地総面積は20ヘクタールで、香港街の敷地総面積は8ヘクタールである。
ここで完成された作品は《アヘン戦争》《天下糧倉》《雍正王朝》《少年黄飛鴻》《新霍雪元甲》、等がある。
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広州街景区 
広州街は横店で一番早めに開発した観光スポットである。1996年に建て、敷地面積は300ムーあり、ここには古い広州の代表的な建築が200箇所近く見える。広州街では広い水面、旧式の商船、海を鎮める宝塔と石坊などが点在している。ここで初めて撮影した映画は著名な監督謝晋の「アヘン戦争」であった。2年後の1998年に続いて香港街を造った。香港街はアヘン戦争後と20世紀前半の古い香港の光景を反映している。ここで皇后像広場、ヴィクトリア湾とヴィクトリア湾で上演するプログラム「怒海争風」が見える。
▼「三元里」
三元里は広州北郊外に位置し、村の北側に北帝を祭る三元廟がある。三元里事件は、阿片戦争中に起こったイギリス軍と民間の武装勢力との衝突事件である。1841年5月、イギリス軍は広州城の郊外にある三元里で略奪や暴行事件を起こし、民衆の怒りを買っていた。三元里と周辺の郷村の一万余の民衆が決起して「平英団」を名乗り、イギリス軍を包囲して攻撃した。民衆が手にしていたのは大刀や長矛などの伝統的な武器であったが、大雨によりイギリス軍の火砲が発揮できない状況であった。イギリス軍は戦闘力を失い、清朝の広州知府に包囲を解くように求めた。すでに戦意を失っていた広州知府によって平英団は解散させられ、戦闘は終結した。この戦争で無くなった烈士を記念するため、広州市人民政府は1950年10月に三元里村で記念碑を建てた。もともとの三元里廟は記念館に改築した。 
▼「三味堂」 
三味堂は風格独特な広東式建物であり、中の回廊、中庭と小劇台の「三味」を集めそろえた。ここの「三味」は魯迅先生書いた私塾「三味書屋」の「三味」とは違う。ここの「三味」は下品な野趣である。すなわち声、色、煙毒三毒を指し、特にアヘンは人間に理知、尊厳、その上命を失わせる毒である。アヘンで、軍隊の戦闘力を失い、国力も弱めた。アヘン戦争で、中華民族は国恥を受けた。すでに100年余り過ぎたが、過去を振り返るに忍びない歴史であった。三味堂は古風で質朴であり、独特な建築風格は映画撮影の愛用されるところである。数多くの名人監督、スターを訪れた。たとえば呉孟達、釈小龍主演の「九歳県知事」、王学斌、趙文卓出演の「七剣下天山」、陳建斌、蒋勤勤出演の「喬家大院」、何潤東、董潔出演の「新梁山伯と祝英台」などはすべてここで撮影した。韓国の「無影剣」も三味堂で撮影した。毎日の午前9:00、午後2:00に小劇台で「禁煙オーディション」というプログラムの演出があり、観光客が参加することができる。
▼「質屋」 
質屋業は中国でもう二千年余りの歴史があり、西暦1120年北宋の宮殿絵師張澤端が画いた「清明上河図」にはすでに質屋が登場していた。解放後、その業務は廃止され、改革開放後の1987年末に、成都で新興の質屋が現れ、それから、北京、上海、瀋陽、広州など数多くの大都会で千軒近くの質屋が復活した。  
▼「十三行」 
十三行は十三洋行とも呼ばれ、珠江北側の五仙門辺りに位置し、その時清政府に特別な許可を得た対外貿易を経営する商務機構であった。最初十三軒があったため、十三行と名づけた。歴史上、広州はずっと海上シルクロードの起点であり、二千年余対外貿易で大貿易港となった。清康煕二十三年(西暦1684年)、四つの税関が成立した。清乾隆二十二年(西暦1757年)から鎖国政策を実施し始め、三つの税関を閉鎖し広州対外港は全国唯一の出国海港になった。その時、外商は直接中国商売人と取引できず、十三行は対外商品往来の仲介であった。十三行の独占地位は一世紀半を続き、第一回アヘン戦争が失敗した後、清政府は五つの税関を開放させられ、十三行はその時から特権を失った。 
▼「銀楼」 
銀楼は、金融取引市場ではなく、実際は金、銀などのアクセサリーの製造と商売をする工場であった。商店は一般的に二、三階建てのもので、だから銀楼と呼ばれる。一番有名な金行は1929年に鄭裕家族は広州で創立した周大福金行であり、資産は50億アメリカドル、従業員は8万人、経営項目は金と銀から玉器、ダイアモンドと宝石類などに広がった。 
▼「財神殿」 
中国民間で古来財神を祭る習俗があった。財神殿は道教の廟宇である。
▼「茶楼」 
広州人はお茶飲むのがすきで、茶文化の内容は豊富であった。どこにでも茶楼があり、そこはレジャー、商談などのよい場所であった。 
▼「天字埠頭」 
天字埠頭は広州珠江の北岸に位置し、広州歴史上では一番早く建てられた埠頭であった。「広州通志」の記載によって、500年前の西暦1465年、李相寿という人が投資して建てたものであった。西暦1729年、天字埠頭の隣に「接管亭」を建て、その時、清政府の役人達は広東に赴任する際、みんな船に乗って京杭大運河に沿って、水路で浙江省、福建省を通ってから、広州の天字埠頭に上陸、接官亭で地方役人と面会する。天字埠頭と接官亭を通って役所区に到着できる。そこには両広総督署、広東巡撫部院、広州府、将軍府、番禺県役所などがあり役所街と呼ばれる。
▼「両広総督署」 
明の始めごろ、全国は18の省に分け、清の光緒年間にいたって、255の省に分けた。省はローカルでの最高行政区であり、省の下にはまた府、州、県を設置した。その時中央政府は任命した省クラスの総督は8人しかいなかった。直隷、両江、閩浙、湖広、陝甘、両広、四川、雲貴と呼ばれた。両広総督署はもともと珠江の北岸に位置して、敷地面積は60ムーであった。第2回アヘン戦争でイギリス軍は広州を砲撃して、連続27時間続き、総督署は砲撃で廃墟になった。西暦1863年にフランス政府は清政府にもとの場所で教会堂を建てると強迫した。バリ聖母院の様式に真似し、25年間を費やして、西暦1888年に完成した。聖心大教会堂と名づけた。 
▼「粤海雄関」 
清康熙二十三年(西暦1685年)に、皇帝は珠江の北岸の五仙門辺りに税関の設置を勅令した。康熙皇帝は親筆で「粤海雄関」と書き、当時に国の威厳を示した。しかし、60年後の100年間にただ中華民族の屈辱の歴史だった。 
▼「十三夷館」 
十三夷館はアヘン戦争前後国民は各外国の商務代行機構への軽蔑な呼び方であった。古代、漢民族統治者は周辺少数民族への呼び方に軽蔑な意味が入った。たとえば東夷、西戎、南蛮、北狄があり、その後すべての少数民族は「四夷」と総称した。その後の後、外国と外国人をすべて夷と呼んだ。その時清政府は広州へ来る外商は十三行街区にしか居住、活動できない規定した。だから、伍氏「怡和行」と潘氏「同文行」などは区内に洋館を建て、外国人に貸す業務を展開した。十三夷館は十三国の商人が住んだことではなく、十三行に管理されることを指した。各国の商人は一旦借りたら変わらず、各自の入り口に本国の国旗を掛けた。西暦1856年第2回アヘン戦争期間に、怒った広州民衆は十三夷館を焼き払い150年余りの歴史を閉じた。当時の光景を再現、子供を教育するため、広州街で復原した。アヘン戦争に関する歴史映画はほとんどここで撮影する。 
▼「鐘楼」 
香港街の交差点で西洋式の鐘楼がある。それは街の先進と繁栄の象徴である。現在の香港ではもう鐘楼の姿は無くなり、映画撮影のときは横店の「香港街」に行かなければならない。現在、香港で有名な鐘楼は九龍最南端の「尖沙嘴大鐘楼」であり、いままでも正常に回転し、香港の歴史変遷を記録している。 
▼「西港城」 
西港城は1856年に建てられた古いイギリス風格を持つ赤レンガの愛特華氏古典建築である。香港干諾中街と摩理巨街の交差点に位置し、設計は簡単古風で質朴であり、最初は香港郵便局として造られた。イギリスと香港の郵便局の色はすべて赤色である。20世紀中葉、香港郵政電信大楼を開業してから、この西港城の一階は子供用品専門店、二階は布店と仕立て局に変わった。三階は聚宝軒レストランになり、広東料理の経営をやっている。干諾中街は香港島の上環地区に位置し、繁華さは中環に負けるけど、年取った観光客はよくここで遊び、買い物する。古い香港を探求すれば、ここはもっとも代表的なところである。 
▼「ヴィクトリア海湾」 
香港のヴィクトリア海港はアメリカのサンフランシスコ港とブラジルのリオデジャネイロ港と並べ、世界三大最優良な天然港のひとつである。世界上200余りの国と地区の460の港と運輸貿易往来を展開し、世界上最も忙しい港のひとつである。ここの夜景は世界で名を馳せ、港岸線は1.5キロ、同時に港で50艘万トン以上の大型船が停泊できる。アヘン戦争後、香港はイギリスの殖民地に成り果てた。大量のアヘンはこの港の通して香港に入った。アヘンの氾濫は中華民族の心身健康を損害し、中国に半世紀の災難を蒙らせた。 
▼「怒海争風」 
怒海争風は香港街景区での主なプログラムである。それはアヘン戦争中、イギリス侵略者と海賊は結託して中国沿海地区にアヘンの密輸場面と中国海上警察が追跡して掃討する戦争場面を反映している。 
▼「皇后像広場」 
皇后像広場は香港城の中心に位置する。広場の真ん中にある銅像はアヘン戦争の発動者であるイギリス前女王ヴィクトリアである。西暦1887年彼女は即位50周年に、イギリスは彼女の「日不落」の成就をひけらかすため、ここで彼女の銅像を建造した。ヴィクトリア時代は中国人民陵辱を受ける時代だった。彼女は中国人民に対しては犯罪人であった。1997年7月1日に、香港が中国に返還された後、この銅像とイギリス駐在軍はすごすごと立ち去った。今の香港皇后像広場は19世紀末に人工で海を埋める方式で建てた広場公園である。香港市民は集会社交の場所になった。 
▼「汇豊銀行」 
皇后像の後ろにあるヨーロッパ建築は滙豊銀行の原始造型である。今の香港滙豊銀行は徳輔皇后像広場のむこう側に位置し、高さは180メートル、総面積は約9200平方メートルである。全名は「香港上海滙豊銀行」である。それは完全に高い科学技術を集まる現代的な建物で、想像力に富む外形は巨大な変形金鋼に似て、イギリス建築大師ノーマンフスタの設計能力を充分に示した。大楼は鉄筋とガラスで造られ、現在世界でもっとも高い建築の一つで、世界で最も綺麗な建物の一つである。壁の外側の鉄筋造型は非常に魅了し、当地の人々は蟹大厦と呼ぶ。滙豊銀行はもともと上海にある個人企業であった。開放後大陸金融国有化してから滙豊銀行は香港に移り、いまは世界で資金がもっとも豊かな銀行のひとつになった。 
▼「徳輔道」 
香港は買い物の天国である。香港街の記念品も特色がある。たとえば海賊系列商品であるジャンク、航海時計、海賊帽子、モーゼル銃などがある。記念としても、お土産としてもよい選択である。輔道は路面電車を運行する道であり、東に行けば上環地区、西に行けば太古広場とビジネス街の金鐘地区に着ける。この道は海を埋めて建てた。道の中心は皇后像広場である。この辺りは香港繁栄のもっとも早めに開発したところであり、その同時に中国民主運動の先駆達は早期活動する場所であった。 
▼「センロジョン教会堂」 
大教会堂は香港地区で現存する歴史がもっとも古いキリスト教の教会堂である。1849年に落成、1865年に現在の規模に拡張した。大教会堂の周りには高くそびえる木がいっぱい植えられ環境は優雅である。出入りの教徒はひっきりなしに続いている。日本は仏教を信仰する国で、日本軍は占領期間に他の宗教信仰の存在は許さなかった。ここは一度日本人会所になった。1996年にセンロジョン教会堂は香港政府に法定古跡に指定された。このヨーロッパ式の建物は下から仰ぎ望むと荘厳と神聖かつ純潔であり、高いところから見下ろすと、十字架ははっきり見え、建物の組み立ては雄勁、古風で質朴である。人々に震撼感を与えている。 
▼「美麗楼」 
香港街景区の政府山に1846年に建てられた香港殖民地時期の古い建築―美麗楼がある。この楼はもともと中環地区に位置、現在中国銀行大厦の所在地である。当時はただ一つの兵営だった。1941年12月8日に(パール事件当日)、日本軍は香港を攻撃し始め、12月25日に当時の香港総督楊慕琦は九龍半島酒店で日本総部に投降届けを手渡した。香港は4年間近くの日本統治時期に入り、その時にここは日本軍隊の司令部になった。20世紀の後半、香港は繁栄になり、特に中環地区は日ごと月ごとに新しくなり、この古い建物はこの周りの環境と合わなくなったので、取り壊すことを決めた。今後別のところを選び復原するため、すべての石とレンガなどの材料は写真を取って番号をつけて保存した。2000年に美麗楼は有名な赤柱広場で復原され、そしてすぐに赤柱地区の代表的な建築になった。それは香港地区でもっとも大きい復古工事の一つである。最上層のバルコニーで港湾と海の景色が眺める。楼内にこの建物の歴史映画展覧が観光客に無料で提供している。そして、楼内の一部分はレストランになり、その中一番有名なのは「香辣屋」であり、アジア風の美食を経営している。そのほか、スペイン料理とインド料理を経営するレストランもある。



アヘン戦争史
清とイギリスとの間で1840年から2年間にわたって行われた戦争である。名前の通り、アヘンの密輸が原因となって発生した戦争である。
▼アヘン貿易
当時のイギリスでは喫茶の風習が上流階級の間で広がり、茶、陶磁器、絹を大量に清から輸入していた。逆に、イギリスから清へ輸出されるものは、時計や望遠鏡のような富裕層向けの物品はあったものの、大量に輸出可能な製品が存在せず(清では、イギリスの主要輸出品だった綿織物への需要がほとんど無かった)、イギリスの大幅な輸入超過(1810年-1820年には2600万ドルの対清貿易赤字)であった。イギリスはアメリカ独立戦争の戦費調達や産業革命による資本蓄積のため、銀の国外流出を抑制する政策をとった。そのためイギリスは植民地のインドで栽培したアヘンを清に密輸出する事で超過分を相殺し、三角貿易を整えることとなった。清では、既に1796年(嘉慶元年)にアヘンの輸入を禁止していた。禁止令は19世紀に入ってからも何度となく発せられたが、アヘンの密輸入は止まず、清国内にアヘン吸引の悪弊が広まっていき、健康を害する者が多くなり、風紀も退廃していった。また、アヘンの輸入代金を銀で決済したことから、アヘンの輸入量増加により、貿易収支が逆転し(1828年-1836年に3600万ドルの対英貿易赤字)、清国内の銀保有量が激減し、銀の高騰を招いた。当時の清は銀本位制であり、銀貨と銅銭が併用され、その交換比率は相場と連動し、銀貨1両に対して銅銭1000文程度であったものが、銀の高騰により銀貨1両に対して銅銭2000文という比率になった。この頃の清では、税金を銀貨で納付するよう規定していたことから、日常生活で銅銭を使用し、税金の納付において銅銭を銀貨に交換していた農民は納める税金が2倍になった計算である。さらに銀が不足し値が上がる事は物価が下がる事と同義であり、清の基本的な税制である地丁銀制が事実上崩壊し、経済にも深刻な影響を及ぼした。
▼アヘン取締
この事態に至って、清では官僚の許乃済から『許太常奏議』といわれる「弛禁論」が出た。概要はアヘンを取り締まる事は無理だから輸入を認めて関税を徴収したほうが良い。というものである。この論はほとんどの人間から反対を受け一蹴された。その後、アヘンを吸引した者は死刑に処すべきだと言う意見が出て、道光帝は林則徐を欽差大臣(特命大臣のこと)に任命し、アヘン密輸の取り締まりに当たらせた。林則徐はアヘンを扱う商人からの贈賄にも応じず、非常に厳しいアヘン密輸に対する取り締まりを行った。1839年(道光十九年)には、アヘン商人たちに「今後、一切アヘンを清国国内に持ち込まない」という旨の誓約書の提出を要求し、イギリス商人が持っていたアヘンを没収、これをまとめて焼却処分した(実際は、海水(食塩水)と消石灰による化学処理によって、アヘンを無害な物質に変えて処分したのであるが、その時の化学反応で発生した煙によって、焼却処分したと庶民には伝承されてきた)。この時に処分したアヘンの総量は1400トンを超えた。その後も誓約書を出さないアヘン商人たちを港から退去させた。
イギリスの監察官のチャールズ・エリオットはイギリス商船を海上に留めて林則徐に抗議を行っていたが、林則徐は「誓約書を提出すれば貿易を許す」と返事した。実際にアメリカ合衆国の商人は誓約書をすぐに提出して貿易を再開し、ライバルがいなくなった事で巨利を得ていた。それを横目で見ていたトマス・カウツ号というイギリス商船が誓約書を提出して貿易を再開した。これに続こうとした商船をエリオットは軍艦を出して引き止め、再度、無条件での貿易禁止の解除を求める要望書を出したが、林則徐はこれをはねつけた。
▼戦争勃発
1839年11月3日、林則徐による貿易拒否の返答を口実にイギリスは戦火を開き、清国船団を壊滅させた。「麻薬の密輸」という開戦理由にイギリス本国の議会でも、野党であった後の首相ウィリアム・グラッドストンらを中心に『こんな恥さらしな戦争はない』などと反対の声が強かったが、清に対する出兵に関する予算案は賛成271票、反対262票の僅差で承認され、この議決を受けたイギリス海軍は、イギリス東洋艦隊を編成して派遣した。艦隊は広州へは赴かず、いきなり天津沖に姿を現した。北京に近い天津に軍艦が現れたことに驚いた清政府は(政権内の権力闘争も加わって)林則徐を解任し、イギリスに対する政策を軟化させた。1840年11月、イギリス艦隊は清政府に対して香港割譲などの要求を出す。清政府はこれを拒否し、翌年1月7日、艦隊は攻撃を開始した。虎門の戦いでは関天培らが奮戦するもイギリス側は完全に制海権を握り、火力にも優るイギリス側が自由に上陸地点を選択できる状況下、戦争は複数の拠点を防御しなければならない清側正規軍に対する、一方的な各個撃破の様相を呈した。
▼終戦後の推移
1842年8月29日、両国は江寧(南京)条約に調印し、阿片戦争は終結した。この条約で清は多額の賠償金と香港の割譲、広東、厦門、福州、寧波、上海の開港を認め、また、翌年の虎門寨追加条約では治外法権、関税自主権の放棄、最恵国待遇条項の承認などを余儀なくされた。ただ意外にも戦争の原因となったアヘンについては特には触れられなかった。この戦争の発端となった恥ずべき原因を文書上に残すことをイギリス側が躊躇したためである。このイギリスと清との不平等条約に他の列強諸国も便乗するところとなり、アメリカ合衆国との望厦条約、フランスとの黄埔条約などが結ばれている。この戦争をイギリスが引き起こした目的は大きく言って2つある。それは、東アジアで支配的存在であった中国を中心とする朝貢体制の打破と、厳しい貿易制限を撤廃して自国の商品をもっと中国側に買わせることである。しかし、結果として中英間における外交体制に大きな風穴を開けることには成功したものの、もう一つの経済的目的「全ての中国人にイギリス製の靴下を履かせる」という目論見は達成されなかった。中国製の綿製品がイギリス製品の輸入を阻害したからである。これを良しとしなかったイギリスは次の機会をうかがうようになり、これが第二次阿片戦争とも言われるアロー戦争へとつながっていくことになった。 
▼戦争の余波 
阿片戦争は清側の敗戦であったが、これについて深刻な衝撃を受けた人々は限られていた。主戦場が広東という北京からは遠く離れた場所であったことや、中華が夷狄に敗れることはまま歴史上に見られたことがその原因である。しかし一部の人々は、イギリスがそれまでの中国の歴史上に度々登場した夷狄とは異なる存在であることを見抜いていた。たとえば林則徐のブレーンであった魏源は、林則徐が収集していたイギリスやアメリカ合衆国の情報を委託され、それを元に『海国図志』を著した。「夷の長技を師とし以て夷を制す」という有名な一節は、これ以後の中国近代史がたどった西欧諸国の技術・思想を受容して改革を図るというスタイルを端的に言い表したことばである。この書は東アジアにおける初めての本格的な世界紹介書であった。それまでにも地誌はあったが、西欧諸国については極めて粗略で誤解に満ちたものであったため、詳しい情報を記した魏源の『海国図志』は画期的であったといえよう。阿片戦争における清朝の敗戦は、清の商人によって、いち早く幕末の日本にも伝えられ、大きな衝撃をもって迎えられた。以前より蘭学が発達していた日本では、中国本土よりも早くこの戦争の国際的な意味を理解し、危機感を募らせた。そのため先にあげた魏源の『海国図志』もすぐに日本に伝えられている。幕末における改革の機運を盛り上げる一翼を、この阿片戦争から生まれた書物が担っていたのである。 


浙江省旅游局[中国語]
横店映画村