横店映画村   
  
 

明清の宮殿と庭園スポットは7億元以上投資され、1:1の比率で北京故宮を基にして立てられた大型観光スポットであり、敷地総面積が100ヘクタールである。特に宮殿、庭園、邸宅、民家等北京の著名な四種類の建築スタイルが揃えられ、北京紫禁城及び北京の町並みを忠実に再現したものである。
ここで撮影された作品は、《天下無双》《金枝欲孽》《皇宮宝貝》《天地英雄》《大明王朝》《満城尽帯黄金甲》、等がある。
中国語WEB][明清宮苑PHOTO



【エリア紹介】
明清宮苑の総敷地面積は1500ムー。1998年11月から工事を始め、2005年元旦まで竣工し、オーブンした。北京の皇宮を原型にして、明清時代の宮廷建築の風格を参考して、また唐、宋、元の礼式をまねし、民国年間の建築特色を溶け込んだ。紫禁城宮殿、皇室庭園、王府と役所、城門と廟、横町と民宿など、多種の古代建築の精華を集めて、それぞれの歴史上の都姿を再現した。
明清宮苑は国家最初のAAAA級の観光地である。明清宮苑の宮殿ごとに、言い尽きない物語がある。この数年間で、《朱元璋還郷》《金枝欲孽》《天下無双》《江山美人》《少年嘉慶》《宝蓮灯》などのほぼ100部の映画、ドラマはここで主なシーンの撮影を完成した。張柏芝、劉燁、李菲、陳宝国、呉孟達、帰亜蕾、袁立、何潤東、何賽飛などのスターがここで芸能事業を発展した。日曜日だったら、午前九時半に午門城楼の上でスターとの面会がある、ゼロ距離でスターとの交流のチャンスだ!これは横店映画村の最も人を引かれるスポットである。

【大 明 門】
大明門は皇城の最南端で、最も外側の正門である。清の時代に大清門と呼ばれ、民国初年は中華門と呼ばれていた。

【御 路】
入り口の白い石畳の道は「御道」である。紫禁城の建築分布での幹線で、皇帝の専用道である。天子以外に皇后が結婚した当日に乗る鸞もここから皇宮に入る。入るだけで、出ることができない。科挙の最終合格者の状元、榜眼、探花もこの道を通って「龍棚」に金榜を見る。かつて、中国を五十年統治し続けた西太后は、幾つ一生遺憾に思う事があって、その中の一つはこの「御道」で歩けなかったこと。その原因は、千古の謎になった。

【長安街と长安左、右門】
承天門の玉石橋の前に皇宫中軸線と交差する通りがあり、長安街と呼ばれる。元々紫禁城の中の御街で、現在は20数キロもあるメインストリートとなっている。東西の門は長安左門と長安右門と言われ、末永く安定すると言う意味で名付けられた。
明清時代の科挙試験の「殿試」の布告を張る「龍棚」はこの門の両側に張るものであり、文の告示は東に武の告示は西に、その他、皇帝の詔書や、朝廷の法令もここで発表される。

【华 表】
承天門の前に三丈三尺の高さの華表が2本立っている。華表は通常、きめの粗い白玉を彫り上げたもので、台座は方形となっており、これを蓮華座、あるいは須弥座という。上面には龍の図案が彫刻され、蟠龍柱上には蟠龍盤とともに流雲紋が飾られている。上端側面には雲板という「誹謗木」(天子の過ちを人民に書かせる札)を模した板があり、石柱上には円形をした承露盤があり、天球と地上に対応している。柱上には天に向かって吠えるポーズを取った神獣が蹲踞しており、これを「朝天吼」あるいは「望天犼」という。

【金水河、御路橋】
承天門の前に河があり、金水河と言われる。河の源は京西玉泉山で、五行、八卦の言い方によると西は金に属し、西からの水は金水と呼ばれる。河を渡る5本の橋は承天門の5つつアーチ型の門と対面し、真ん中の橋は「御路橋」と呼ばれる。「御路」と同じに皇帝専用の橋で他の橋よりは高く、広く、長い。真ん中の橋による2本の橋は「王公橋」と呼ばれ、皇族、貴族専用の橋であった。

【承 天 門】
初めて築かれたのは1420年。ただし、当初の名称は承天門(Chengtianmen)だった。その後、落雷による焼失や、明末に李自成が北京に攻め込んだことによる破壊に遭遇している。清朝の順治8年(1651年)には、廃墟と化していた建造物に大規模な修理が施され、名称も「天安門」と改められた。
明・清両王朝時代は、大きな法律や命令は最初にこの門から発表された。また、出発したり凱旋する軍隊を皇帝が謁見する場所でもあった。
1949年10月1日に行われた中華人民共和国の建国式典で、毛沢東は建国宣言をこの門の上で行った。それ以降この門は中華人民共和国の象徴とされる。

【午 門】
 故宮の正門で、明の永楽十八年に建てられた。高さ37.95m。重厚なレンガ・石造りの高台があり、その真ん中に三つの間が開かれており、中間の間は皇帝だけ出入りすることができる。高台の上に5つのやぐらが建てられ、漢白玉の欄干に囲まれ、五鳳楼と呼ばれた。メインやぐらは幅9間で、寄せ棟造りの重ねた屋根で、ほかの4つのやぐらは二重の尖った屋根で、金色の瑠璃瓦は絢爛たる絵画と映り栄え、より雄大で、より華やかに見える。午門の左右に鐘鼓楼があり、皇帝が太和殿で式典を司る際、威厳を示す鐘や鼓が一斉に鳴り響いた。清代に、毎年暦書を頒布する儀式もここで行われていた。この門の上の横木は、もうアーチ型ではなく、これは皇帝の「家門」だということである。住居の門の前で人を殺すのは、とても縁起が悪いことだから、罪人を午門の外へ護送した後、城の南西方の宣武門の外へ連れて、そこの菜市口で刑処するという。

【太 和 門】
太和門は皇宮で「天子五重門」の最後の一門である。ここは皇帝が政治会議をするところだった。即ち「御門聴政」。明の永楽18年に建てた。明清時代の中で二十四人の皇帝はここで即位した。紫禁城の中で一番広く、一番高級、一番重要な皇宮の正殿である。

【太和殿広場】
太和殿の前にあるのは太和殿広場の東と西側には同じ建物がある。東は体仁閣と言い、西は弘義閣と言う。
弘義閣は世にもまれな宝物を保存するところで、どれでも連城のたまであったため、入れ取り出しの太監には厳しい規定があった。例えば、出入りは二人以上、出入りの時間や人員、何を入れるか、何を取り出すかも登録しなければならなかった。また裸で出入るのも特別な規定であった。

【大 銅 缸】
紫禁城の中に銅製の甕は308個もある。大きい物は水を3トン、小さい物は水を1トンも入れられる。これは消防用の甕で、下には炉が造ってあって、冬には焚き火を入れて凍った水を溶かす。鉄製、銅製と銅金メッキンの3種類を分けて、金メッキンのものは100両の金を使っている。八国連合軍が北京侵入の時、銃剣で金を削った。現在でもまだ跡が残っている。

【太 和 殿】
太和殿は土台を含めた高さ37・44メートル、敷地面積2377平方メートル。明・清代の皇帝による即位詔書の宣布や成婚の儀、誕辰(誕生日)、春節(旧正月)、冬至、出師の儀など、王朝の重要な儀式が執り行われた。厳粛な太和殿は三階の石の上にある、皇帝が天下を取るような気勢が感じる。太和殿の横の広さは十一部屋、奥行きは五部屋、全殿で直径は1メートルの大きい柱は72本あって、72の地煞星を指している、真ん中の6本は金色の盤竜柱である。殿の天井で「蟠龍藻井」の模様がある。この古風な、優雅な装飾のある天井は火を消すことができる、いったん皇宮で火事が起こった場合、自ら噴水して、火元の火が消える。金台の上で一本の百龍宝座がある。観光客は龍服(昔皇帝が着る服)を着て、一回「皇帝」の様子で写真を撮れる。

【乾清門と乾清門広場】
皇帝の住居や日常業務を行った場所である「内廷」の正門。門とは言え、清代ではここで御門聴政が行われていた。前に乾清門広場があって、前朝と後廷の境である。前朝とは皇帝と役人達の仕事場で、後廷とは皇后の寝室及び女官や皇子らの生活地区であった。

【乾清宫前甬路と東西廊房】
乾清門から乾清宫までは1本50メーターぐらい、両側に欄干が付いている渡り廊下がある。皇帝は自らで歩くために造ったもので、ほかの道より高く、階段も少ない。
道の東側は東廡房といい、ここに御茶房、御薬房、祀孔処、上書房等がある。,上書房は太子が読書のところである。東宮門は日精門と言われ、宮内へ入れる。西側には懋勤殿で、出勤受付と奏事処、批本処の他に皇帝が読書する南書房がある。太監が仕事する職場でもあった。

【乾 清 宫】
故宮内廷の乾清門内にあり、明の永楽十八年に建てられた。高さ20mで、二重寄棟造りの屋根で、幅9間の建物だ。殿内には「正大光明」の額が懸けられている。外の両側には、政権を象徴する金めっきの江山金殿と社稷金殿がある。明代に、皇帝と皇后の寝宮で、清代以降、皇帝の寝宮と執務室だった。

【交 泰 殿】
   交泰殿の創建は明代の永楽18年(1420)であるが、現在の建物は清代の嘉慶年間に再建された。元旦や千秋(皇后の誕生日)などの祝日に皇后がここでお祝いを受けた。乾隆皇帝が皇帝の権力を象徴する25種の印璽をここに納めて以来、交泰殿は印璽の保存場所となった。

【坤 寧 宫】
坤寧宮は明代には皇后の寝室として使用されていたが、李自成による武装蜂起の際に、崇禎帝の皇后はこの坤寧宮で自害した。清の時代に再建された際には、内外装ともに他の宮殿には無い施しをし、宮殿の西端の四室を祭礼の場所とした。大祭礼や毎月一日及び十五日には皇帝と皇后も自ら神を祭った。東端の二室は皇帝が成婚の際、新婚部屋として使われていた為、室内の壁は紅く塗られ、天井には双喜(ダブルハッピー)の提灯が掛けられていた。婚礼を挙げた皇帝はこの坤寧宮に二日間泊まり、その後他の宮殿へと移ったのだが、さきに結婚し後に皇帝になった者はこのような待遇を受けることはできなかったので、この新婚部屋を使用したのは幼くして皇帝の座についた同治帝と光緒帝の二人のみであった。

【坤 寧 門 】
坤寧門は皇宮内廷の裏門で、明清時代は警備が厳しく、出入りの時は顔なじみでも腰カードをチェックしなければならなかった。

【神 武 门】
神武門はもとの名を玄武門といい、故宮の北門にあたる。明の永楽18年(1420年)に建てられ、清の康煕時代に再建された。この門には時を知らせる為の鐘と太鼓が設けられており、夕方から明け方にかけて鐘をつき太鼓を鳴らして夜番の夜回りと時刻を知らせた。また、神武門の門楼は城壁の上に建てられており、その城壁にはアーチ型の門が三ヶ所ある。

【儲 秀 宮】
明代の永楽18年(1420)に建てられ、清代の順治12年(1655)に改築された。明、清二代にわたって后妃がここに居住した。咸豊2年(1852)、入宮し「蘭貴人」の称を授けられた慈禧皇后は、この儲秀宮に住んでいた。そして咸豊6年3月、「懿嬪」となった慈禧皇后がここで同治帝を生んだ。光緒10年(1884)、長春宮に住んでいた慈禧皇太后は自らの50歳の誕生日を迎えるため、銀63万両で改装工事をして、再びこの宮殿に移った。庭の回廊の壁に書かれた言葉は、当時の大臣たちが慈禧皇太后の誕生日を祝って書いた賛辞である。

【閲 是 楼】
閲是楼は上下の二階建てで、上層は皇帝、皇后、太皇、皇太后が芝居を見る「専用個室」だった。下層は王子、姫、妃たちが芝居を見るところだった。
【古 華 軒】
古華軒は皇室の成員達が自らで楽しむ所で、「古詞」、「古書」を聴く場所だった。
【漱芳斎と漱芳斎舞台】
ドラマでよく現れる漱芳斉は、妃や宮仕えの女たちの普段に活動場所だった。その対面の漱芳斉舞台は、皇宮内、頻繁な演出をするところだった、初期の京劇名家の潭鑫培、楊小楼、梅蘭芳は全部ここで登場してた。

【体 元 殿】
体元殿は清の末期に宮の門を取り除いて改築してなったのだ。主に長春宮芝居の扮装楼として使われていた。西太后は長年に長春宮で住んでいた、だからここの演出は多忙だった。

【養心殿】
雍正帝は即位した、最初の三年間は、養心殿で父の康煕帝のために喪に服していた。三年後、彼は先王が61年間、ずっと乾清宮に住んでいた、聖地で住むに忍びないからと言って、この殿を寝宮として日常の政務を処理場所だと決めた。それから歴代の清の皇帝は養心殿を寝宮として使われていた。

【御花園】
雄大で、威風堂々な皇宮を見物してから、私達は今、古めかしく雅やかな皇室庭園に着いた。紫禁城の中で最も古い名所——御花園。その敷地面積は1万2千数平方メートル、主体建築と共に竣工した。

【堆秀山】
太湖の石を台座として、山頂で亭がある築山は堆秀山と呼ばれて、万暦11年に、元の観花殿を取り壊して、太湖の石を使って、巧みに山の形のように積み上げて、名付けて「堆秀」。

【欽安殿】
欽安殿は明の時代に建てて、元は竹林の中で立てた、嘉靖14年、周りで低い壁を建てて、「園中院」の形になった。正門は「天一門」と呼ばれていた。ここは道教の聖地だった、殿内は玄武大帝を祭っていた。

【延暉閣】
延輝閣は清の皇帝や大臣達がとても好きなところだった。皇帝の指図を受けって、楼閣に入った王侯貴族は皇帝様の真正面で座ってて、詩を吟じて対聯をすることができる。元々はここの名は延暉閣ではなく、明の時代にその名は「望清閣」と呼ばれていた。なんか縁起が悪いから、「延暉閣」に改名した。

【養性斎】
養性斉、文字通りで、精神修養の意味である。明の時は「楽志斉」と呼ばれている、この部屋は西にあり東に向き。二階立てで、全部で三十部屋がある。楼の側で太湖石の築山があって、特別な風景だ。乾隆41年、全国各地から集めた書籍を部屋の中で保管して、その後よくここに来て本を読んで、沈思する。

【九龍壁】
九龍壁は南にあり北に向いていて、東六宮の南側に位置している、皇極門の目隠し用の塀である。乾隆36年に建てた、五つの色で焼き作れた270の瑠璃瓦で構成したのだ。壁の高さは3.5メートル、幅は30メートル、面積は105平方メートル。

【演武場】
清の初期の統治者は最も武を尊んだのだ。勇猛と凶暴は彼らが武力で天下を奪った根本だった。しかし、数十年を経って、戦争は減らして、全国各地は平和で、王公貴族は安逸を貪って、刀を捨てた。乾隆帝はそれを心配しているから、人を命じて宮殿で演武場を建てた。

【文化宝蔵——恭王府】
清政府は北京に都を定めた後、諸王を封じた。三百年の間に建てた王府は百基以上。 恭王府はすべての王府の中で最も優れた人だ、ここに入った何代の主はすべて歴史での重要人物だった。

【銀安殿】
銀安殿は清の末期の総理役所の「中堂」だった。でも、今の総理と違って、彼はただ外交と対外ビジネスの件だけを担当していた。

【恭王府花園】
恭王府は庭と花園の二大部分を分けている。「紅学家」(紅楼夢の研究者)のある学者は、ここが「大観園」の原型だと思っている。

【役所】
役所は普通:府の役所、州の役所、県の役所の三等を分けている、もちろん私達がよく耳に入るの道台の役所、司吏の役所、行政機構の役所など、その役目はそれぞれだが、それに応じるレベルがある。旨を受ける、事件を審理するところだった。

【公主府】
この王女は乾隆帝の三つ目の娘であり、西暦1731年に生まれて、彼女の母の孝賢純皇后は、乾隆帝が即位する時、四歳の姫を「固倫和敬」王女と封じた。十六歳の時、父王は婚礼を主宰して補国公のバルシュルの嫁になった。

【城隍廟】 
城隍廟は封建社会の京城で、必ず祭る廟宇の一つである。善男善女は願をかけて、お礼参りをする場所だ。世の中で人間の全てのことを管掌している、特に不動産、貸借の争い、お参りが最も盛んだった。

【永定門】
永定門は古北京の外城の中門である。この門の前に「矢楼」と呼ばれている、もう一つの門がある。敵を防ぐための「敵楼」だった。


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