横店映画村   
  

清明上河図スポットは世に知られている北宋時代の画家張択端の名作<清明上河図>を基に立てられた建築物で、敷地面積は54ヘクタールである。この観光スポットは外城、内城と皇宮の三つに分かれ、またお城の中に河が延々と流れていく。これで、お城の中に又お城があり、川の中に又河があるという独特な構成になっている。
ここで撮影された作品は《大宋裁判官》《飛天舞》《小李飛刀》《絶代双嬌》《宝蓮灯》、等がある。 
中国語WEB][清明上河図PHOTO

 


景門エリア——虹橋エリア——高府——埠頭——上善門——孫羊正店——御街——開封府——樊楼——披露エリア——小御街——童貫府——蔡京府——金祥湖——水門——梁山——村舍エリア——範丹廟——点将台

【概況】
横店グループは2006年度中国競争力強い500グループ企業の一つで、中国民営企業自主創新競争力強い50民営企業の一つである。電子電気、医薬化学工業、映画ドラマ娯楽の三大産業を柱として、総合実力は中国500強いグループ企業の100位を占めている。横店影視城は1996年にスタートし、著名映画監督の謝晋の「アヘン戦争」を撮影するために「十九世紀の南粤広州街」の建設を始めたもので、現在、中国初めての4A級観光地として、毎年数百万の観光客が訪れている。

【清明上河図の概况】
2006年末までは清明上河図エリアで400余りの映画ドラマを撮影した。その内、「小李飛刀」、「大宋提刑官」、「傻王闯天下」、「宝蓮灯」、「少年楊家将」等、有名な映画スター謝霆鋒、何潤東、範氷氷等はここで撮影したことがある。
清明上河図エリアは北宋著名な画家の張択端の有名な作品「清明上河図」を基調とし、北宋時代の社会背景、民俗、風俗及び宋代の建築特色を結び合い、映画ドラマ撮影の需要に応じて建てたものである。1997年に着工し、1998年に完成した。敷地面積は約600ム、宋代建築は120余り、街道は15本、橋は6本、埠頭は9個、鳥居は16カ所、古船は6隻及び数え切れないほどの石獅子、石馬、石の腰掛、石碑がある。更にその間に窓台のある長廊、高殿などが点在している。

【景門エリア】
清明上河図は北宋(960~1127年)、張沢端・作品である。148×528センチ。「清明上河図」には、北宋の都・開封の東門大街の清明節(西暦4月初旬)での賑やかな光景が描かれている。東門大街では、各種の商業や手工業、商いが行われていて、馬上の官吏、カゴに乗った婦人、てんびん棒を担いだ人、荷車を引いている人、船を漕いでいる人など、様々な人が盛んに往来しているのが見える。複雑に入り組んだ絵は、人をうっとりさせる風俗絵巻になっている。
故宮博物院に所蔵されているのは張沢端の原画で、北宋皇室の収蔵品だった。しかし、北宋が金 (1115~1234年)に攻めこまれた際、他の書画とともに略奪され、長い間、各地を転々としていた。
そしていま、保存されてきた中国の文物の中で、庶民の日常生活をそのまま描写した非常に価値ある作品となっている。

【虹橋エリア】
清明上河図は虹橋を中心とする。虹橋とは名前の通り、雨後の色鮮やかな虹に似ているとのこと。北宋時代にはこれは汴河を渡る最も雄大な橋で、中国10大古橋の一つである。橋脚間の距離は40メーター、アプローチも含めて68メーター、幅は11.5メーター、高さは5.8メーター。柱のない木造建築様式を採用している。この橋は宋真宗祥符二年(西暦1017年)に作られたもので、当時の汴河の上には3本もあった。残念ながら千年後の現在は1本も残っていない。
橋の下は汴河が流れている。これは中国最も早く開通した運河の一つで、歴史は今から2、3千年前の春秋戦国時代に遡ることができる。現在、中国将棋の中に「楚漢相争、,鸿河為界」はこの河を指している。隋に入ってから隋煬帝は江南の揚州へ花見に下るため、百万の国民を動員して、河川疎通をはかって、洛陽から途中淮河を貫いて、揚子江までの全長1300里(650キロ)の「通済渠」を開通した。それはちょうどう開封を通っていくものであった。”唐の時代から開封付近の運河を「汴河」と呼んだ。

【河市商店街】
清明上河図が描いた河沿いの商店街は非常に繁栄したものであった。各地からの観光客買い物需要に応じて、現在も河沿いに商店街を造った。造りたての糖人、氏名入りの茶道具、祖先を尋ねる絵本等、また特別に皆さんのために寸法の違う清明上河図の巻物の複製品を用意してある。
この商店街にはまた場面体験劇「大宋巡遊」が上演されている。

【高府】
観光及び映画ドラマ撮影のためにエリア内に清明上河図が描いていないものも建てた。例えば、この高俅府は真ん中の建物は二階建てで、ほかは平屋であるが、敷地面積は約1500平米。
『水滸伝』(すいこでん、水滸傳)は、中国の明代に書かれた小説で、四大奇書の一つ。施耐庵あるいは羅貫中がそれまで講談として行われてきた北宋の徽宗期に起こった反乱を題材とする物語を集大成して創作されたとされる。「滸」は「ほとり」の意味。北宋時代末期に、汚職官吏たちがはびこる世相のため世の中からはじき出された英雄好漢たちが梁山泊と呼ばれる自然の要塞に集まって無法者の集団を形成し、やがて悪徳官吏を打倒し国を救う事を目指すという物語である。
『高俅』微宗に仕える殿帥府太尉であり、宋を裏で操る4姦臣の1人。従弟に高廉、養子に高衙内(高俅の従兄の高三郎の実子という)がいる。元々は、街のゴロツキで幇間をして金を稼ぎ仲間を引き連れ無頼を行なっていた。かつて、高俅は今までの悪行を重ねたために、憲兵に逮捕され、浪人上がりの禁軍師範の王昇の裁きによって、棒叩きの刑罰を喰らった過去を持っていた。だが、彼は多芸な人物で棒術、相撲、音楽や詩文などに精通し、特に蹴鞠が非常に上手で、その技から人々に元々の名前である高二ではなく「高毬」と呼ばれるほどであった。即位前の宋の皇族の端王(後の微宗)に偶然蹴鞠の技を披露した際に、端王に惚れ込まれ、王の側に仕えるようになる。端王が皇帝に即位し、微宗になると共に取り立てられ、最終的には殿帥府の太尉まで昇格した。彼は典型的な悪人として描かれており、彼と彼の一族は私利私欲のために権力を濫用した。九紋龍史進の師匠であり、自身が恨みを持つ亡き王昇の息子で亡父と同様の禁軍師範・王進の官職を剥奪し、その出奔の原因を生み出した。また、養子の高衙内が王進と同じ禁軍師範の豹子頭林冲の妻を敬慕していたために、彼を冤罪に陥れ、柴進が梁山泊へ入るきっかけとなった。また方臘討伐後に凱旋し官職についた宋江、盧俊義らの暗殺を謀り、成功させている。そのことを徽宗に責められるが、天子も基本的には高俅を信用しているため、特に罰を受ける事はなかった。

【東京埠頭】
清明上河図が描いた東京埠頭は船が集まり、水運が繁忙な光景であった。埠頭の下に東京の人々が「生命の河」と呼ばれる汴河。東京埠頭には二匹の怪獣があり、馬の頭、牛の体、象の足、鳥の翼が付いている。怪獣は日々埠頭の安全を守って、「馬侯」と呼ばれる。

【城門エリア】
北宋の開封城は、外城、内城、皇城を3層分けていた。外城は河沿い商店街を特色とし、城壁は敵を防ぎとめるため。外城の中に城が造ってあり、内城と呼ばれる。内城には北宋の最高統治者が居住し、戦略や方策を決めるところ、皇城と呼ばれる。城壁の前一周に外堀がある。
注:水車のところからカートは徒歩コースと重なり合う。
水車は水流の力により、水を水車の横に付けた容器でくみ上げ、その水がさらに升の中へ落ち、これで集められた水が農道の下を通って、畑を灌漑する。 呉子牛監督のテレビドラマ「天下粮倉」はここでロケした。

【上善門】
外城から内城へ入る境の門で、上善門と呼ばれる。張択端の有名な作品「清明上河図」の中に重点的に描かれた雄大な関所である。城門の通路の高さは9メーターに達し、全体の高さは21.5メーターもある。敷地面積は1550平米、これは960年に趙匡胤が帝位に付くときに安全防備のために設置した14の城門の一つで、皇帝や高官、身分の高い人たちの出入りはこの門を通る。

【孫羊正店】
孫は正統を代表し、羊は宋代の縁起の良い代名詞であった。正店とは皇帝が自ら批准した官店で、宮廷用の御膳を経営し、自家製の酒を醸造する資格を持っている。更にバックが強く、資金は十分である。店の前に高く組み合わせた台は「歓門彩楼」と呼ばれ、民間芸能人は集まって、特技を披露するステージであった。これによって、来客を呼びかけている。
孫羊正店の対面に経済型の「脚店」がある。名前の通り、足を止めて一休みするところ。金持ちは見もしないが、貧乏人はこのような中間の旅館に泊まれないところであった。昔、貿易で往来の商売人、手紙や公文書の送達者、参拝巡りの僧侶、科挙試験を受けに行く途中の秀才等は「赶脚(馬追い)」の人と呼ばれていた。

【御街】
[ 御街]は広くないが、千年前は平らに轢かれた土の道路であった。この「御街」を歩く時、知っておかなければならないことは「黄土が道をひき、浄水が街をかける」時に真ん中を歩いてはいけない。なぜか皇帝が来ることであった。もし、九回の銅鑼の音が鳴らす時は速やかに避けるか、或いは跪いて迎えるべきであった。この習慣は清の末まで続いた。

【樊楼】
「樊楼」は北宋の汴京辺りには最も代表的な豪華建築であった。「樊楼」の由来に関しては、二つの説があり、一つはこの高級レストランのオーナーは樊鳴礼と言う名前で、「樊楼」と呼ばれた。もう一つはこのオーナーは元々明礬の商売から始まって、儲かってからこのレストランを建てて、その後に72軒のチェーン店も開設し、明礬の部分音で名付けられたという。
劉暁慶、孫耀威、橋本麗香が主演する「江山美人」、李小冉、趙文卓、吕良偉が主演する「七剣下天山」、範氷氷が主演する「皇宫宝貝」、萧蔷、焦恩俊が主演する「小李飛刀」、張鉄林、李小冉が主演する「薛仁貴伝奇」はここでロケしたことがある。

【聊斋惊魂】
「聊斎鬼屋」は2005年に増設したもので、2004年の新版「聊斎」テレビドラマはここで撮影した。テレビドラマのシーンを再現し、お客さんに体験してもらうため、元のロケ地に合成設備を入れ、照明、音響、風の効果を合わせて、ドラマの「お化け屋」のシーンを復元した。

【大宋提刑官シーン】
何年間前はテレビドラマ「大宋提刑官」はCCTV及び各省市テレビ局でヒットした。そのドラマの第一部、第二部は清明上河図エリアで撮影したものである。

【小御街】
「小御街」とは宋徽宗趙佶はこの通りにある勾欄院で、名妓李師師に会ったという。
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「瓦肆」とは?瓦——泊まるところ、瓦肆とは現在のラブホテル、青楼、秦楼、楚館とも呼ばれた。

【童貫府】
童貫は元々普通の宦官であったが密告で、昇格でき、当時の動揺する情勢と皇帝の愚昧を利用して、最後に枢密院のトップとなった。この人は女々しく、悪いことばっかりしたので、人々は憤怒を晴らすため、彼を「母相」と呼んでいた。

【蔡京府】
蔡京の住宅で、官職は「太師」までなので、「太師府」とも呼ばれた。蔡京は、延べ16年間太師(宰相)の地位に就くほどに権力を一身に集めた。彼に反対する者は新旧両党いずれを問わず放逐し、それらを一括りに旧法派と見做し「奸党」と貶めた。放逐された旧法党人は三百余人におよび、またその子孫も禁固処分として科挙の受験資格を奪った。こうして生れた「奸党」の人名一覧として「元祐朋党碑(元祐党石碑)」を建立し、「奸党」一味のブラックリストとして天下に知らしめた。しかしこの石碑には、本来明らかに新法派に属する章惇や安燾といった政治家の名まで含まれており、旧法弾圧に名を藉りた蔡京の権力掌握策の実体を明らかにしている。なお蔡京はこの外にも、新法の名のもとに民衆から重税を取り立て、徽宗を喜ばせる為に大土木工事を行い、王朝の財政を放漫化させた。このことは当時と後世とを問わず、彼の評判を一層凶悪なものとすることになった。彼は徽宗帝と一緒に北宋をだめにしてしまった。
彼は書道の達人であり、宋代の蘇東坡・黄庭堅・米元章と合わせて四絶と称された。

【水門エリア】
「車門」といい、この門を出ると城を出る。
構造から見ると、この水門は水をせき止め用ではない。水路で出入りの船をコントロールし、城の防備のために造ったものである。船は貨物を載せて入城する時に載せた貨物によって徴税しなければならない。貨物の量が大きいため、税収は大きいし、水門の管理職の実入りも大きい。状況があった時に布告を張り、指名手配をする。昔、夜間外出禁止令制度があり、禁止令が出された時に水門を閉めて、通行を禁止する。禁止令を違反することは「犯夜」といい、人は牢屋に入れられ、舟は没収される。水門も重要な関所であった。

【村廟エリア】
林志穎、蘇有朋が主演する「絶代双驕」はここでロケした。ここは四大恶人が隠れている「恶人谷」。
李氷氷、劉暁慶が主演する「徽娘宛心」や霍思燕、邱心志が主演する「杨乃武と小白菜」はシーンを取ったことがあり、この建物は小白菜の家である。

【点将台】
最後の観光ポイントである。点将台とは紀元前200年余り前の秦の末に楚と漢の争いがあった。漢の王劉邦は張良、箫何に説得され、韓信に大将統領(上将軍)を受けて、覇王項羽を討伐しようとしたが、韓信は身分が卑しく、股くぐりの屈辱があったため、将士は特に樊侩、王凌、英布、曹参等の名将が服従しないことを心配していた。萧何は「将士は韓信に服従しないが、王には言いなりに服従するので、王の威信で韓信の威信を高めるべきである。高い点将台を建て、自らで韓信を台に載せ、帥印を授与する」と進言した。当日に劉邦が萧何の進言通りに点将を行い、韓信の威厳を添った。この点将台では毎日3回「轅門斬子」が上演されている。


浙江省旅游局[中国語]
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