| 【皇城正門】 ●アトラクション/秦王迎賓/8:10/場所:城門入口 |
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▼始皇帝(紀元前259年1月-紀元前210年7月)は、中国秦の皇帝。姓は嬴(えい)、氏は趙(ちょう)、諱は政(せい)。現代中国語では、始皇帝(シーホワンディー、Shǐ
Huángdì)または秦始皇(チンシーホワン、Qín Shǐ Huáng)という。
▼もともと秦の王であり、紀元前246年-紀元前210年の間在位して初めて中国を統一し、紀元前221年から中国史上はじめての皇帝と称した。始皇帝は、民間人の武器所持を禁じ没収し、中国が一つになったことを宣言するために、それを溶かして巨大な像を作った。さらに度量衡[度(長さ)量(体積)衡(重さ)の単位]、貨幣、車の幅を統一(『軌を一にする』の故事)した。また文字では、秦で使われていた漢字を全国で使うように定めた。そして行幸を重ね、全国の交通の整備を進めた。紀元前214年、北の匈奴に備えるために万里の長城を修復し、将軍蒙恬に30万の兵を与えて北方へ派遣して匈奴を討たせ、オルドス地方に版図を広げた。
▼紀元前213年に李斯の進言により、周王朝の再興を願い秦王朝を批判する儒者達の書物を焼き払わせた。ただし医療や農業などの実用書は許した(焚書)。翌年に不老不死の仙薬作りを命じていた侯生と盧生が、仙薬ができないことで恐れて逃亡した。怒った始皇帝は咸陽の学者たちを取り調べて、460人を穴埋めにした(坑儒)。
▼始皇帝は自らの領土を大行列を引き連れて巡遊することを好んだ。この巡遊は全部で5回に及び、全国の交通網整備を進めた。この巡遊には、後の天下の覇権争いを行う項羽と劉邦が見学しており、項羽は「いずれは天下を奪い取る」と述べ、一方の劉邦は「男はああなりたいものだ」と述べたと伝えられている。
▼始皇帝は生まれつきあまり体が丈夫ではなく、統一したころから不老不死を求めて、方士を傍に近づけるようになった。前出の侯生と盧生もそうだが、特に有名なのは徐福である。2度目の巡遊の途中、斉に立ち寄り、徐福に東にあるという蓬莱の国へ行き、仙人を連れてくるようにと命じた。この蓬莱は日本の事を指していると言われ、日本各地に徐福の最期の地といわれる場所がいくつもある(徐福伝説)。
▼ここに、後世の統一王朝の範となる、精密で合理的な支配体制を持つ国家が誕生した。この城門は始皇帝あるいは外国の使者が入城するルートです。 |
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| 【前広場】 |
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▼紀元前227年、燕の太子丹は隣国の趙が秦に滅ぼされ危機感を感じ、起死回生を図って政に対して刺客の荊軻を送りこんだ(巻物の中に剣を隠して政に近づいたとされる。殿中においては剣を抜くことは法令により禁止されていたので家臣は剣を抜けなかった)。政はあわやというところに追い詰められたが、侍医の機転により命拾いをし、荊軻を切り殺した。暗殺されかけたことに怒った政は王賁に命じ、燕を攻めて翌年に滅ぼした。
▼秦王宮は非常に厳しい警戒を取った。広場には観察、展望、警備及び防御の役目を果たす闕楼が建てられた。前広場は駐屯防衛の第一関所でまた閲隊、儀礼を行う場所。また外国から使者を迎えて歓迎する場所として使われる。周りの城壁は高さ18メートル、全長2.5キロ。城壁には龍の頭みたいなものがあり、それは螭(チ)という。口が大きく、おなかに沢山の水を溜めることができたという。中国の伝統建築物の排水口の装飾としてよく使われる。 |
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| 【中宮門】 |
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| ▼三つの城門が並んでいて、真ん中は皇帝及び使者、両サイドは貴族、文臣武将が通る。その城門の中にまた城門が三つある。最初は千斤門。栓を使わず、太い木で突っ張る。次は刺門。両側に約40本の棒が突き出ている。門が閉めるとつまり40本の栓をかける。この刺門の前に陌路という道があり、罪が犯して殺された大臣の遺体をこの陌路から運ばれる。大臣は陌路の東門、宦官女官は西門の決まりもある。最後の門は閘門と呼ばれる。ぶら下げている何トンもある門は緊急事態が発生するとき、縄を切ったらすぐ落ちるように設定されている。<後漢演義>および<楊家将>などにも閘門が登場した。 |
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| 【四海帰一広場】 |
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▼閲兵、迎賓などを行う場所。真ん中に立っている八本の柱は神柱と呼ばれる。現在の華表の原型。華表は建築シンボルの一種であり、すでに中国を象徴するものの一つともなっている。上端側面には雲板という「誹謗木」(天子の過ちを人民に書かせる札)を模した板があり、石柱上には円形をした承露盤があり、天球と地上に対応している。柱上には天に向かって吠えるポーズを取った神獣が蹲踞しており、これを「朝天吼」あるいは「望天犼」という。しかし始皇帝は皇帝の過ちが庶民に言われることはありえないことで神柱はただの崇拝物になった。八本は八卦の方位を象徴する。
▼この広場では、多くの映画がここでロケした。<始皇帝の暗殺>、<ヒーロー>、<漢武大帝>、<プロミス>など。また東門、西門がある。それは東青龍、西白虎、南朱雀、北玄武から考えられた。広場は全体黒く作られた。五行思想では秦の水命と認定され、黒に属する。 |
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| 【九十九階段】 |
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| ▼九は中国では縁起がよい数字。発音は 久と同じ、始皇帝は国運が長くつづくようにこの九十九段を作った。しかし二代目から国が滅亡した。階段の下に飛龍がある。「竜に九似あり」とされ、角は鹿、頭は駱駝、眼は鬼(注:中国で言う「鬼」は幽霊のこと)あるいは兎、体は大蛇、腹は蜃(この場合の蜃は蛤ではなく蛟の意)、背中の鱗は鯉、爪は鷹、掌は虎、耳は牛にそれぞれ似るという。また口辺に長髯をたくわえ、喉下には一尺四方の逆鱗があり、顎下に宝珠を持っていると言われる。秋になると淵の中に潜み、春には天に昇るとも言う。始皇帝は自分のことが龍の子孫という。 |
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| 【四海帰一殿】 |
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| ▼四海は天下の意味だ。この大殿は前殿、中殿、正殿からなっている。奥深さは120m。142本の柱に支えられる。文臣武将、外国使者が皇帝大殿に入るときまず武器を全部捨てる。中殿に池があって、それは天池といわれる。一本の橋を渡って主殿に行く。橋の端に獬豸(かいち)という中国の伝説上の動物がある。頭の真ん中には長い一角を持つことから一角獣とも呼ばれた。この角を折った者は死ぬと言われる。水辺に住むのを好む。人の紛争が起きると、角を使って理が通っていない一方を突き倒す。(その後突き倒した人を食べるという伝説もある。)次第にカイチはより正義感のある性格付けがなされてゆき、正義や公正を象徴する祥獣(瑞獣の一種)となった。始皇帝に異心を持つ人なら獬豸に知られてたべられる。<始皇帝の暗殺>、<ヒーロー>、<漢武大帝>がここでロケした。 |
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| 【英雄ロケ地】 |
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| ▼無名と長空が決闘した囲碁館。矢門、同じく<ヒーロー>のシーン、無名が乱矢に刺された門のところ。日本のデザイナー和田恵美が服装設計を担当した。 |
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| 【地下皇城】 |
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▼兵馬俑(へいばよう)は、本来は古代中国で死者を埋葬する際に副葬された俑のうち、兵士及び馬をかたどったものを指す。現在では、秦の始皇帝の陵墓の周辺に埋納されたもののみをさすことが多い。ここでは、世界的に著名な始皇帝のそれについて記す。秦の始皇帝陵の一部として1987年、世界遺産(文化遺産)に登録されている。21世紀に入った現在でも、この大文物群の調査・研究は続いている。近年の現地の研究者や日本の研究者の調査報告によると、従来、来世へと旅立った始皇帝を守るべく配された軍隊と思われていたこの大文物群は、それだけでなく、生前の始皇帝の生活そのものを来世に持って行こうとしたものであったようだ。すなわち、兵馬のみならず宮殿の実物大のレプリカや、文官や芸人等の傭も発掘されたのである。
▼2006年には、日本で初めて彩色の残る兵士俑が公開された。同年6月28日の新華社電によると最近では兵馬俑の眠る始皇帝陵の陪葬墓から出土した人骨がペルシャ系のDNAと同じ特徴を持つ男性の骨と分かった。
▼地下皇城はその兵馬俑の複製品を展示されている場所。 |
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| 【夢回秦漢】 アトラクション/10:00/15:00/ 15:30(土のみ) |
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| ▼ハイテク技術と人の演出がよく融合した15分間のアトラクション。 |
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| 【漢街】 |
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▼6000㎡の敷地面積の漢時代の建築街。武帝(ぶてい、紀元前156年-紀元前87年 在位紀元前141年-紀元前87年)は中国前漢の第7代皇帝。諱は徹。廟号は世宗。正式な諡号は孝武皇帝。武帝の治世の前期は漢の最盛期であり、中国史上において栄光の時代の一つでもあった。しかし、文景の治による蓄積によっての繁栄であるという見方もあり、後半の悪政も含めて考えれば武帝の評価は分かれる所である。彼自身、外交や遠征などの派手な事業については特筆すべき事柄が多いが、内政に関して見るべきものがない。むしろ、こうした地道な政治を後手に回していたきらいがあり、さかんな造作もあいまって治世末には農民反乱が頻発した。このため、後世は秦の始皇帝と並び「(英邁な資質ではあるが)大事業で民衆を疲弊させた君主」の代表例として、しばしば引き合いに出されることとなる。
ただし、武帝の悪政と言うのは、前漢王朝がそれまでの元勲によって動かされる王朝からある程度中央集権的な王朝へと脱皮する過程にて生じたものであると言う見方もできる。
▼武帝の時、賢良文学の士で挙げられた董仲舒は儒学を正統の学問として五経博士を設置することを献策した。武帝はこの献策をいれ、建元5年(紀元前136年)、五経博士を設けた。前漢末から災異思想などによって神秘主義的に経書を解釈した緯書が現れた(「経」には機織りの「たていと」、「緯」は「よこいと」の意味がある)。
緯書は六経に孝経を足した七経に対して七緯が整理され、予言書である讖書や図讖(としん)と合わせて讖緯といい、前漢末から後漢にかけて流行した。新の王莽も後漢の光武帝も盛んに讖緯を利用している。一方で桓譚や王充といった思想家は無神論を唱え、その合理主義的な立場から讖緯を非難している。
▼ここに董仲舒屋敷や平陽姫屋敷や長姫屋敷がある。また礼、楽を行う“仙楽庁”がある。 |
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